2016年3月10日木曜日

ネーミングというお仕事

かつて、ネーミングというお仕事を何度か請け負ったことがある。
クライアントソースが狭いからか、すべて大手流通企業のショップ名だ。
クライアントからは、これといってネーミングに対する指針はない。
企業のカラ―や雰囲気、地域性、目指すべき方向をこちらで勝手に想定して、
さまざまな言語から意味が通じるモノを探す。
たいていは、未来感のあるものであり、業態の広がりを感じさせるもの。
誰もが呼びやすい、覚えやすい、印象に残る、イメージが広がるものでないとだめで、
あまりにも普通っぽいものは選ばれない。かといって意味がわからないものも持つかしい。

結果、多くは英語になる。フランス語やイタリア語も調べてはみるが、たいていは決まらない。
そのような言語は決定者に馴染みがないし、一般の人にとっても同じことが言えるからだろう。
よほどフランス仕立てやイタリア仕立ての物件でないとその言語は難しいだろう。

日本人相手の日本の案件なのに、なんで英語?

そう思って日本語の言葉も提案するのだが、やはり英文の方が格好良く響くのだね。

それと、長ったらしいのも難しい。クライアントは短いワードを好む。
その方が覚えやすいし印象に残るから。
ところが、言葉は短ければ短いほど、商標登録が難しい。たいていは既に登録されていたりする。

というわけで、「未来」とか「人と人」とか「円満」とか「毎日」とか、
日本語のコンセプト・キーワードを構想し、それが置き換わる英語を探す。
短くて、記号的に印象に残り、しかも商標登録の隙間を狙えそうなワード。

かくして私が考えたネーミングでいまでもご商売されているお店が関西圏に三グループ(3店ではない)。
ネーミングではないが、ニックネーム的キャッチフレーズが、いまでも微かに生きているらしいのが1件。
残念ながら多くはないが、プレゼンの機会が少なかった。落選したネーミング案件もたぶんもっとたくさんあったのだろう(忘れちゃった)。

最近、ネットでネーミング公募みたいなものを見つけて、暇にあかして提案してみるのだが、これが非常に確立が低い。
もっともこっちも思いつきレベルでの投稿になるわけだが、競合相手はたぶんほとんどが知ろうとで、つまり彼らも思いつきネーミングだ。
発注者はむしろそうした思いつきの中にいい言葉が見いだせると割り切っているのだろう。
公募が終わって結果を見てみると、私は思いつかなかったような言葉だったりする。
水がらみのイベントの名前が「ザブーン」みたいなね。
私は一生懸命アクアだとかウォーターとか考えていたのに、ザブーン!って。
結局、ネーミングってそういうものなのかもしれません。

2016年2月10日水曜日

平凡すぎる名前について

(NOTEからの書き写し)
 最近は子供に”きらきらネーム”なんて名前をつけるのが流行りだということですが。そりゃあもう振門体(ふるもんてぃ)だの、嘉緒翠(かおす)だの、読めませんがな。
それはさておき、逆に平凡な名前ってどうなんだろう?
日本人の名前の代表と言えば、山田太郎だとか、花子ってところかと思うのですが、実は山田という苗字は日本一多いのかと言えばそうでもない。
ググってみますと、多い苗字のランキングは、
1.佐藤 2.鈴木 3.高橋 4.田中 5.伊藤 6.山本 7.渡辺 8.中村 9.小林 10.加藤
だそうで、山田さんは12位のようです。なぁんだ、山田さんが一番多いわけじゃないのだ。
じゃぁ、名前の方は? 太郎が日本一? と思って調べてみたら、太郎なんて百位にも入ってこない
男女併せてトップ10は
清 茂 勇 博 進 実 弘 正 勝 隆 だそうで、女性名はトーンと出てこない。ようやく58位で勝美というのが現れるけれども、これは男女兼用? 60位に薫、78位に正美、これは女性名でしょ! っていうのは、和子で136位。その次は幸子で173位。その後は258位清美、267位一美、280位和美、300位節子と続きます。
まぁ、なぜこのような名前のランキングが気になったのかと言いますと、ちょっと平凡なお話をつくってみようかしらんって思ったときに、それなら登場人物は平凡な名前でなくちゃあって思って調べてみたんですけどね。
ググっている中で質問サイトに投稿しているこんな人が。
「私の名前って平凡なんでしょうか? 同姓同名が近所にいたり、どこかの女将さんだったり、殺された人だったり……検索するといっぱい出てきます……」
こんな悩みもあるんですね。回答者が言うには、世の中に多い名前はたとえばタナカノリコ? ジュンコ、イクコ、サチコ、ですか?
そうすると質問者、ひゃあ、この中に私がいる! だって。
なかなか興味深いQ&Aでした。
ちなみに自分の名前はランキングでは見つけられず、全国で198人いるそうな。姓名フルネームですと、なんと全国で私一人しかいない。つまり同姓同名の方はいないんですよ。これはびっくり。私の名前はきらきらネームじゃないですけど、そんな希少なフルネームだったんですね!
ちなみに調べたサイトは同姓同名ランキングってところ。
あなたもやってみやってみ!?

2016年1月22日金曜日

ないのと同じ。

あの人のことが好き。
でも言えない。言わない。
好きだと思っているだけでいい。
思っていればきっといつかは。

”言葉はいらない”

そういうエントリを書こうと思ったが、少し前に既に書いていた。じゃぁ、

”伝えなきゃ伝わらない”

ことを書こうと思ったが、これもほぼそのようなことを既にここで書いていた。

でも、もう一度書いてみよう。

心の中で思っているだけでは何も伝わらない。
伝わらないということは思っていないのと同じことだ。

好きだということもそうだけれども、
何かをしようと考えている。でも誰にも言わないし、そのうちそのうちと、行動にさえ出ない。

そういうのも思っているだけで実行していなければ、思っていないのと同じ。

ないのと同じってことは、存在していないってこと。

もし、それが今の自分にとって最も大事なことだったりすると、
その大事なことが存在してないってことは、もはや
自分自身がこの世に存在していないのとほとんど同じ感じなんじゃない?

思っているだけじゃダメ。
考えているだけじゃなにもはじまらない。

自分から言葉にしなきゃ、行動に出なきゃだめなんだ。

……とは思うんですがねえ。
ふみみ

2015年4月10日金曜日

48文字のメッセージ

140文字以内のメッセージ=twitter はもはや日常普通のツールとなってしまった感がありますが、
私なんかは時々は覗き見るものの、ほとんどそこにつぶやきを入れたりすることはないのであります。
なんで?だって?
面倒くさいから。

さてそれはともかく、世の中には文字数を定めた文章がいくつも存在しますね。
俳句、短歌、五行歌。
そんなんじゃなくても、四百字原稿用紙一枚でとか、原稿用紙百枚以内でとか。
文字数が多いと面倒だけども、短すぎるっていうのもまた文章を書くのは難しい。
私なんざ、文字数を定められると維持になってその文字数ぴったりに書いてやろうとか思っちゃう。
まるでパズルに取り組むようにね。

ところがこればかりはちょっとできないなあと思うのが、48文字のメッセージ。
日本語には「あいうえお~わをん」まで、48文字が存在するわけですが、

”この48文字をそれぞれ一回だけ使って意味のある文章にしなさい”

こんな問題を出されたらもはや手も足も出せません。
ところがこれをやっているのが昔からあるいろは歌なんですね。

いろはにほへと ちりぬるを
わかよたれそ つねならむ
うゐのおくやま けふこえて
あさきゆめみし ゑひもせす
色はにほへど 散りぬるを
我が世たれぞ 常ならむ
有為の奥山  今日越えて
浅き夢見じ  酔ひもせず 
        (中学教科書)
あまりにも知りすぎていていまさら何とも思わなかったにしては、よく考えるとすごい文章じゃないですか。
色っぽくて、クールで、哲学で。
いったい誰がこんなすごい文章を作ったのでしょう。
一説には空海であるとも言われているけれど、それも確かではなく、wikipediaでは、
作者不明となっています。

思うんだけれ度も、日本語48文字を一文字ずつ使って歌をつくろうと考えたのがこれなのか、
あるいはこの歌に使われた48文字が日本語として残ったのか(昔は、48文字以外の発音も
あったと聞いている)。どちらにしてもこれは日本を代表する詩節でしょう。

48文字を一回ずつ使って他の文章をつくるなんてとてもできないさ、そう思っていたら、
かつてそんなコンテストがあったんだって。

明治36年(1903年)に万朝報という新聞に、新しいいろは歌(国音の歌)が募集された。
通常のいろはに、「ん」を含んだ48文字という条件で作成されたものである。
一等には、坂本百次郎の以下の歌が選ばれ、「とりな順」として、戦前には「いろは順」
とともに使用されていた。

とりなくこゑす ゆめさませ
みよあけわたる ひんかしを
そらいろはえて おきつへに
ほふねむれゐぬ もやのうち
鳥啼く声す 夢覚ませ
見よ明け渡る 東を
空色映えて 沖つ辺に
帆船群れゐぬ 靄の中







すごいもんですね。。。   ふみみ

コピーライティングで儲ける?

一行、ウン百万円!
かつてそんな噂もあった。
もう三十年以上も前の、コピーライターブームと言われていた時代に
今や大御所となっておられる巨匠コピーライターの一行に対する噂だった。
それがほんとうかデマかは、本人に確かめたことがないのでわかりませんが、
少なくともひとつのプレゼンでそのような金額が支払われていたことは事実だ。
ひとつのプレゼンということになれば、コピー一行というわけにはいかないだろうが、
たとえば一本のコンセプトコピーと、それを展開させた表現コピーが数本、
さらにはデザイナーを巻き込んだ表現カンプと企画書、
そうした一連のプレゼン物で数百万、ということはあっただろう。
そんんなケースで、突き詰めると最初に編み出された一本のコンセプトコピーに対して
一本ン百万円、と噂されたということは十分にあると思う。

巨匠たちのそうした都市伝説は当時たくさんあった。

ポケットから取り出したくしゃくしゃの紙に書かれたコピーでプレゼンしたとか、
用意された企画書を使わずに、まったく異なる企画を口頭でプレゼンしたとか、
いかにもありそうな話であり、そういうことは実際にあったようだ。

最近、ネット上でコピーライターを名乗って稼いでいる人物がいる。
K.T.という人は、K広告事務所というのを原宿あたりにかまえているそうで、ネット上やリアルでコピー教室を開催しているが、コンサル業務が中心のようだ。彼の名前をTCC(東京コピーライターズクラブ)などでみたことがない。
U.K.という人は、ネット上だけで露出していて、いわくダイレクトレスポンスのコピーライティングでン億円儲かる! 的なコピー講座を開いている。こちらの方も、業界内では聞いたことがない名前で、その作品もどこにも露出していないところを見ると、どうもネットだけのコピーライティングで稼いでいるようなのだが。

広告コピーで稼いでいる人は、ヒットした作品群を手がけて有名になって仕事を手にしている。
ところが、そうじゃないのに儲かっているというのは……よほどうまい商売ができているのか、あるいは?
地道に制作して稼いでいるクリエイターは結構いると思うけれども、コピーライティングでン億円稼いでいるなんて言われるとどうにも胡散臭いね。

まぁ、有名にも、億万長者にもなれない私が言うのもなんですけどね。
                         ふみみ


2015年4月7日火曜日

許してあげる。

聞く。
受け入れる。
許す。

博多は中州の老舗のマダムから聞いた言葉。
マダムは滅法じゃんけんに強い人で、一度も負けたことがないという。
そんなやつはおらんやろう、そう折ってチャレンジしたけれども、やはり勝てなかった。
そのマダムが、いろんな客とうまくやって来た秘訣のひとつとしてそんなことを教えてくれたのだ。
もう随分と昔の話だったので、聞く、受け入れる、許す、という三つの言葉だったか、もうひとつくらいあったか曖昧になってしまっているのだが、最後の許すだけは間違いなくそう言った。

つまり、世の中にはいろんな人がいて、その考え方も意見も生き方もみんな違う。
その違う考え方や意見を理解するのは相当に困難だ。
だとすれば、とにかく聞いてあげようじゃないか、それから否定することなく受け止めてやろうじゃないか、その上でそれがどんな内容であったとしても、許してあげようじゃないか、ということだ。
ほんとうなら理解するという行為であってもいいはずなんだけれども、マダムはそうは言わなかった。
やっぱり、違う考えを「理解」するのは難しいと彼女も知っていたのだろう。
人間が共に生きていくためには、お互いに「許し合う」ということをしないと、対立してしまう。
対立してしまったらもう一緒にはいられない。
実際、もう顔を合わせたくないような相手は、歳を重ねるごとにどんどん増えていくように思う。
そこで、もし、許すことができたなら、誰とでもいい関係を続けていけるのに。

外国で頻繁に起きているテロ事件も、結局許すことができない人々が武力にモノを言わせようとし、被害を受けた方もまたそのテロを許すことができないという悪循環になっている。
イエスもマホメッドも、相手を許す……愛を説いているに違いないのに。

あの中州もマダム、あの時点でもかなりの重鎮だった。ウン十年たった今でもご健在なのだろうか。
                           ふみみ

2015年4月6日月曜日

あなたのことを、わかりたいのに。

「先生、人間はお互いにわかりあえないんじゃあないですか?」
どうしてそんなことを聞いたのかはまるで思えていない。
「そりゃあ、あたりまえだ。だから文学っていうモノがあるんじゃないか」
フランス文学の教授がそう言ったのだけは覚えている。
もう随分と昔、大学二年生の終り頃だったと思う。
フランス語の単位を落としかけていて、なんとか先生にお願いするために教授に接近したときの会話だったように思う。
記憶にあるのはただこのことだけなんだけれども、そのときから私の中では
”人はわかりあえない。だから文学がある”
という概念だけがいつまでも残っているのだ。

最近になって、別のなにかから学んだのは、やはり人間は相手のことを決して理解できないという事実。
それは心理学もしくは脳科学的なアプローチによるものだったと思う。
いや、そんなことはない。私は友人のことを凄く理解してるよ。
そういう人もいるかもしれないが、個人の頭の中にあるもの、あるいは心にあるもの、
それはその個人だけがわかっているもので、いくら目と目を合わせようが、どれほどの言葉を重ねようが、決してそのすべてを相手に伝えることなんてできないのだ、そう書いてあった。
その通りだと納得した。特にデータ的な裏付けがなくとも、そうだと思ったのだ。
理解していると思っているのは、単なる幻想にしか過ぎない。
「ああ、わかってるよ、お前のことはすべて」
そう言ってのけるのは、そう思い込んでいるだけ。
本当は相手の考えていることの半分も……いや、十分の一も理解していないかもしれないのだ。
まぁ、三割でも理解してもらったら御の字だろうと思う。
それほど人と人はわかりあえないのだとしたら、やっぱり理解するためにいくらでも言葉を重ねるしかない。
いくら言葉を重ねても、半分くらいしかわかってもらえないとしても。
同じ文章を読んでも、人それぞれに理解の仕方や理解した内容が違うというのは、まさしくいかにそのまま伝わらないかという証拠だと思う。
しかし、だから文学って面白いのだ。
絵を見て、あるいは音楽を聞いて、千差万別の感想があるように、言葉においてもそれぞれに違う解釈ができる、だからこそ芸術でありうるのだ。

なんか賢そうにエラソーに文学論っぽいことをかいてしまったけれど、
本当は私は何もわかっちゃあいません。
ただ、やっぱり人と人は決してわかりあえない、
若い頃に訊いてしまったそんな言葉が頭の中をぐるぐる回っているだけなんです。