2017年7月31日月曜日

言葉のちから。

広告コピーの世界で三十余年の時間を費やしてきたのだが、
実は……正直に言うと、言葉のチカラをあまりにも信用して来なかった。
ついぞコピーライターとして鳴かず飛ばずでこの歳になってしまったのは、
そんな風に言葉のチカラを信じていなかったからかもしれない。

なぜそう考えるようになってしまったのか?

ひとつには、さまざまな物事に対して疑ってかかってしまうという、
私の性質もあったかもしれない。
所詮言葉なんて、などという煎じ詰めずに諦めてしまう癖があったせいかもしれない。

しかし、最もおおきな理由は、携わってきた仕事のレベルだったのだと思う。
レベルというのに語弊があるなら、仕事の種類と言うべきか。

広告会では、デザインに比べるとコピーライティングというのは後発な気がする。
最も、エレキテルを発明した平賀源内が日本のコピーライターの元祖だとするなら、
コピーの歴史は古いものではあるのだが。

歴史はともかく、かつての広告制作において、デザインが主役で、コピーはデザインするための素材の一つ的な感覚があった。
その証拠に、多くのグラフィック広告では、現在でも、
グレースペースと呼ばれるコピー領域はデザイン主体で決められ、
じゃ、ここのところは◯文字数でね、なんてことになる。
文字数を指定されると、我々コピーライターは、嬉々としてぴったり
その文字数で書き上げたりもする。パズルを解くみたいにね。
コピーが重要であれば、ここのところはデザインから割り出された文字数ではなく、
伝達すべき内容を伝えるのにどれほどの言葉が必要か、というところから決められるべきなのに。

さらに、コピーの読み手である消費者もしくは生活者は忙しい、という理由もある。
チラシやポスター、新聞や雑誌広告のコピーを、どれほどの人が読むのだろうか。
ヘッドコピーはたいていは級数がでかいし、目立たせているから目に入るだろう。
だが、それに続くボディコピーが問題だ。
どうせこんなコピー、誰も読まないから……なんどそんな言葉を聞き、
自身でも言ったことだろう。

しかし本当は、読む価値があるコピーは読まれるし、
逆に価値あるコピーを書くべきなのだ。
そして読者に読みたい!と思ってもらえる工夫が必要なのだ。

まぁ、主には上記のような理由で、私はコピーライターでありながら、
その主たる役割を放棄し続けていたのかもしれない。

さて今、コピーライターという職からいったん離れ、再度復活というか、
フリーランスで生きていこうとしているこの期に及んで、
ようやく言葉のチカラを信じるようになった。

その理由は、経験とか直感によるものではない。
科学によるものだ。

その科学とは心理学だが、曰く、人が他の生物と違っているのは、
言葉を持つ唯一の地上生物であること。また、言葉を持ったことで
人類は飛躍的な進化を成功させたという事実。
また、言葉が可能にしたのは、思考というもの。言葉がなければ、
人間は今でも他の動物と同じように森の中をうろついていたであろうということ。

どうやら、人間の真ん中にあるのが言葉というものなのだ。

「私」という言葉がなければ、私という概念は存在せず、となれば、
私という個人の意識も危うくなる。
「あなた」という言葉があるからあなたがいて、あなたが存在するから私も存在する。
少々哲学的な考えに聞こえるが、だいたいそんなところ。
詳しくは認知心理学に問うてください。

ま、とにかく、実は言葉のチカラは、想像以上に偉大なものである、
私はようやくそのことに気づいたのです。今頃になって。

ふみみ

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